ちょっと抽象的なタイトルですが、多くの人が気にしている or 不安になる部分かと思います。
成功者がこれを言う理由
「続けていればいつかは成功する」
「失敗しても諦めなければ必ず報われる」
同じ業界の先輩や目標にしている人、成功者の方々がよくこういうことを言っているのを見聞きします。
彼ら彼女らがこのようなことをいうのは、もちろんその人自身が「続けてきた」から。
その人自身が成功(と認識している状態)に至った方法を素直に口にしているのです。
では、この言は正しいのでしょうか?
私の考えとしては「正しい、ただし表面だけを捉えていては成功しない」と考えています。
そもそも、成功者の人の意見の是非の前に見落としがちな点があります。
それは、見習おうとする人の言葉の方が世に出てきやすく、多くの失敗した人の思いや行動原則は目立つところにはあらわれないということです。
いわゆる「生存者バイアス」のようなものです。
生存者バイアス:何らかの選択過程を通過した人・物・事にのみを基準として判断を行い、通過に失敗した人・物・事は見えなくなるため、それを見逃してしまうという誤謬である。 選択バイアスの一種(Wikipediaより)
つまり、あなたが見聞きする情報はすでに淘汰されており、淘汰の末生き残った情報なのです。
あなたはこれから淘汰圧の中を生きていきたいのですから、注目すべきは淘汰圧に耐えられなかった方、すなわち失敗して消えていった人が、なぜ消えていったのかも理解する必要があるのです。
結局、成功者の人の「続けていれば~」は、「(淘汰圧に耐えられるように)続けていれば~」ということなのです。
なぜただ続けるだけでは駄目なのか?
「続けていれば~」系の言葉の意味は多くの人が認識し、「当たり前じゃん」と思っているはずです。
ところが、世間には成功者で溢れているかといわれるとそうではありません。
主観的にも客観的にも成功とは程遠い、失敗してしまったと思われる人の方が多く、成功者といわれるのはごく一握りです。
成功者がみんな口をそろえて言う「続けていれば~」を実践して、それでも失敗したと思える経験のある人は多いのではないでしょうか。
こうした表面的な「続けていれば~」を実践して成功しなかった人は何がいけなかったのか?
それは、「同じことを続けていた」からです。
生物の行動には必ず淘汰圧が働きます。
淘汰圧というと難しいイメージですが、要は「他からの干渉・邪魔」です。
身近な例で例えると、
「ブログを書く」行為に対して「人気のあるほかのブログ(淘汰圧)に埋もれてしまう」
「運動をする」行為に対して「怪我(淘汰圧)で運動を止めてしまう」
等です。
この段階ではブログを書こうとした人も運動をしようとした人も、最初の目標から考えると”失敗した”ということになりそうです。
最終的に成功できない人は、次に同じ行為をしようとしたときに「同じやり方」をしてしまうことです。
つまり、前回失敗した原因となった淘汰圧を乗り越えようとしていないのです。
成功する人とそうでない人の違い
では、成功する人は何が違うのか。
それは、「同じやり方でしない、毎回異なるやり方をする」ということです。
言い方を変えると「淘汰圧に耐えられるやり方を模索している」ということで、
平たく言うとブラッシュアップし続ける、変化し続けるということです。
成功する人は意識的・無意識的に毎回異なるやり方を探ります。
失敗には原因があり、「どうしてうまくいかないんだろう…(WHY)」と悩むだけではなく「自分はいかにして失敗したのか(HOW)」を念頭に置き、前回の淘汰圧を乗り越えようとしているのです。
その果てに、我々が見聞きするような成功者の圧倒的な能力というものが備わり、成功に至るのです。
「続けていればいつか…」という表現には、
「今回失敗したけどそれは環境や運が悪かったからで、成功したあの人は同じやり方でたまたま機会が巡ってきたんだ。続けていればいつか自分の目の前にその機会が巡ってくるんだ、だから同じやり方でこのまま続けていれば成功が訪れる」
というニュアンスをかぎ取ってしまうかもしれません。
しかしそれは誤りです。
成功する人:自分を変えようとする、淘汰に身をさらす、運を掴める位置に自分を持っていく
失敗する人:環境が変わるのを待つ、淘汰圧を避ける、運が自分の前に来るのを待つ
表面的には同じに見えますが、この両者は別の次元に立っているのです。
どうすれば成功に近づけるか
「続ければ成功する」
これは、各試みから学び、前回を凌駕しているからです。
成功するには、やり慣れた方法や視点に対して破綻しない範囲で意識的に淘汰圧にさらし、新鮮な学びを取り入れ続けることが必要です。
厄介なことに、1回淘汰されたからすぐに成功するわけではなく、成功するまで何度も続けていかなければいけません。
毎回失敗し、同じところで足踏みをしているように感じるかもしれませんが、それは同じことの繰り返しではありません。
前回と似ているけどわずかに異なる、そんな螺旋を描きながらも近づいているのです。

淘汰圧にさらされる前と後ではもはや別の人です。
仏教の「行(ぎょう)」のようなもので、ただその行為をするだけに見えて、行為の前後ではもはや異なる世界にいるのです。
そう考えれば、その行為への取り組む姿勢も視点もガラッと変わるかもしれません。
淘汰圧にさらされることは煩雑で不快で恐ろしいことです。
しかし、この不快感、ある意味本能に逆らうような変化をし続けなければいけません。
継続を超えて
「続けていればいつか…」という言い回しから、繰り返しをすれば目の前にチャンスが転がり込む、というニュアンスを嗅ぎとってはいけない。
「続けていればいつか…」には、漫然と繰り返すこと以上のことが求められているのです。
常に淘汰圧をかけ、研ぎ澄ます者にその”いつか”が現れるのです。
その時、継続していた人は既に継続前のその人自身とは別次元に立つ別人なのです。
そういう人間は獲得すべくして獲得する実力を備えており、たまたま回ってきた機会に乗っかった訳ではないのです。
自己を固定化して環境の変化・機を待つのではなく、自分自身を変えているのです。
縁は運とは違う。常に備えていなければ運を感じ取って縁に転化することはできません。
続けてきた各点が大事なのではなく、各点の変化、微分、改善の傾向、推移こそが大事なのです。
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